バッハ

Johann Sebastian Bach【1685年3月31日-1750年7月28日】

bachバッハは、音楽界で最も重要な人物であると言えるだろう。

それは例えばモーツァルトワーグナーなどバッハ以降の作曲家なら誰もが、バッハを学んだことからも確かなことだと思われる。

ではバッハは何を成し遂げた人物なのか?
彼は、一言で言えば18世紀まで続いていた音楽をまとめて、完成させた人物である。

特に、ポリフォニー音楽を完成させたことで有名である。

ポリフォニーとは、複旋律音楽のことで、左手と右手、さらには指だけで独立した旋律を作るものであり、これは対位法と呼ばれる技法を使って作曲するものであった。

バッハ以前は形式的で教科書のように利用するものであった対位法、当然形式ばった曲となっていたものをバッハは柔軟に対位法を利用することで、生き生きとした曲を生み出したのである。その意味では当時、音楽の先端を行く人物であったともいえる。

次にバッハの人柄であるが、彼はその業績にふさわしい堅実で勤勉な性格の持ち主であった。例えば、彼の住居の移転はそのまま職場の変更となっている。単なる引越しのような無駄をしない人物であった。

また、彼は死ぬまで常に宮廷音楽家や教会オルガニストなど定職を持っていた。職は何度も変わったが仕事を辞めるときには、ほとんどの場合次の職場は決まっていたのである。突発的に辞めることはなかったと言える。

さらにお金の使い方も細かく書き残しており、これはバッハ研究の大きな助けとなっている。

作曲数も他の作曲家とは比べ物にならない量である。もちろん、教会オルガニストとして活動していたことも作曲数に関係してくる(ミサなどのために毎回作曲する必要があるため)が、彼の作品は1000以上もあり、群を抜いているといってよいだろう。そして作曲年から見ると生涯を通じて作曲し続けたことが分かるが、ここからも彼の勤勉さが分かるだろう。また、彼の死の原因となった白内障が、少年時代の勉強のし過ぎから来たといわれている。バッハ本人も、なぜそれほどの技術を身につけることが出来たのか、と聞かれ、「勤勉だったからです。私と同じくらい勤勉であれば、誰でも私と同じようになれるでしょう」と語ったという。

バッハは勤勉なだけでなく、好奇心も強く、古いものにこだわらない自由な発想も持ち合わせていたといわれている。

例えば、彼は有名なオルガニストや外国の音楽家がやってくると、必ずそれを見に行き、新しいことを知ろうとした。少年時代は有名なオルガニストが来ると聞いて3日間歩いて見に行ったという。また、新しい楽器に対しても、彼は好奇心旺盛で、彼のいる地方で新しいオルガンが作られると、彼は必ずといっていいほど試演に行った。

バッハの先進性は楽譜にも表れている。バッハ以前は楽譜と言うものが無かった。それは主に即興演奏であったことなどが理由だが、バッハの作品の多くが残っていることから分かるように、最先端の記譜法も利用したのである。

□ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 略歴

1685年 ドイツ、アイゼナハで生まれる
1692年 教会のラテン語学校に入学、教会合唱団に入る
1695年 兄のいるオールドルフに向かう
1700年 ミカエル学校に入学し、器楽(特にオルガン)を学ぶ
1706年 作曲活動を本格的に開始
1708年 ヴァイマール宮廷で「宮廷音楽家兼オルガニスト」の地位につく
1717年 ケーテンに移り、ケーテンの宮廷楽師長になる
1736年 ザクセン候宮廷作曲家も兼任する
1750年 死去

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□バッハのピアノ作品

平均律クラヴィーア曲集 (The Well-Tempered Clavier)

間違いなくバッハの代表作の一つと言える作品であり、ハンス=フォン=ビューローが言うようにピアニストにとっての聖書的な存在である。

【1巻:1722~23年】

平均律クラヴィーア曲集第1巻は1722年、バッハが37歳の時に完成した。

当時バッハはケーテンで宮廷楽長を務めており、その保障された生活の中で宗教曲以外の多くの器楽曲を作曲した時代であった。そのような時代に「音楽の学習を志す若い人々の有益な使用のために、また、この学習を既に身につけた人々の特別な楽しみのために」として作ったと言われている。

バッハがこのように述べたことからも分かるようにこの作品は単なる教育用の作品にとどまらず、豊かな音楽性も併せ持つ芸術作品である。

【2巻:1738~42年頃作曲】

この作品は1744年頃、第1巻から20年余りも過ぎて作曲された。第1巻の頃のバッハはケーテンで宮廷楽長であったが、1723年以降第2巻作曲時もライプツィヒのトマス教会のカントルとして過ごしていた。実は最近の研究によってバッハがこの時代、教会音楽ばかり作ったわけではない、ということが明らかになっており、特に1735年以降はクラヴィーアのための曲を多く残している。この1735年以降に作られたのが第2巻である。バッハによる表題には平均律クラヴィーア曲集とは書かれていなかったが、第1巻と同じ構成であったため第2巻と名づけられた。

ゴールドベルク変奏曲 (Requiem)【1742年作曲】

1742年に出版されたこの変奏曲は、バッハが、カイザーリング伯爵のために書いたとされている。

当時、伯爵は不眠症に悩まされており、伯爵お抱えのチェンバリストゴールドベルクが眠れぬ伯爵のためチェンバロを弾いていた。

ゴールドベルクはバッハの弟子でもあり、彼を通じて、依頼されたとされている。眠れぬ夜を楽しめる曲ということで、子守歌のようなものではなく楽しい変奏曲となっている。

ちなみに、伯爵はその後、「私の変奏曲」と呼び、この曲をたいへん気に入っていたということである。

インベンションとシンフォニア(Invention and Sinfonia)【1720~23年作曲】

この曲は1720年から、バッハがケーテンの宮廷楽長だった時代に書かれた。

当時、バッハは宗教曲ではなく器楽曲に力を入れ、弟子たちや息子の教育に力を入れた時代でもあった。この作品も教育用に書かれたとされている。

バッハが定義したインヴェンションとは「2声部で構成された曲」であり、シンフォニアは「3声部で構成された曲」であった。そこで、この曲集を練習することにより、2声、もしくは3声を綺麗に弾き分け、同時に楽想を得るための手引きとして使うよう書き残している。

現在では「2声インヴェンション」「3声インヴェンション」という呼び方もされている。

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イギリス組曲 (Engilsh Suite)【1914年~1917年頃作曲】

バッハによって作られたクラヴィーアのための組曲集。

バッハ自身は「前奏曲つき組曲」とだけ書き記していたが、「あるイギリス人のために作曲された」と息子のクリスティアンによる写譜に書き込まれていたことや前奏曲つきの組曲が当時のイギリスの流行であったことから「イギリス組曲」の名が与えられた。

この作品はバッハの作品によくあることだが、細かい楽器の指定がなくピアノ、チェンバロなどで演奏されることが多い。

フランス組曲 (French Suite)【1722年頃作曲】

この作品は6つのクラヴィーアのための組曲で構成された、バッハのケーテン時代の作品である。

この時期は音楽を愛するケーテン侯のもとで、宮廷楽長として過ごしたこの時期は最もバッハにとって生活と精神が安定しており、その影響もあってか優雅な曲集である。

この組曲が「フランス組曲」と呼ばれるようになったのは楽譜がフランス語で書かれていたことやフランスの舞曲が中にあることからだと言われている。

パルティータ(Partita)【1726~31年作曲】

この作品は「イギリス組曲」や「フランス組曲」と同様、クラヴィーアのための大組曲集である。

1726年から作曲され、個別に出版してきた作品を1731年にまとめて出版したと言われているがはっきりとは分かっていない。

この作品は傑作として名高い上に演奏難度が高く、出版当時から多くの賞賛を得続けてきた。
例えば19世紀のバッハ研究の音楽学者であったフォルケルも「美しく、響き豊かで表情に富み、いつまでも新鮮さを失わない」と賞賛している。

ちなみにパルティータとは組曲とほぼ同じ意味であるが、バッハ自身は組曲よりもパルティータの方がより自由度が高いものと考えていたようである。

フーガの技法(The Art of Fuga)【1742~49年頃作曲】

この作品はバッハの生涯最後の作品であり、彼の人生を集約した大作である。長い間この作品は亡くなる直前にかかれたものとされてきた。しかし、バッハの晩年は白内障により、ほとんど目が見えなかったということが分かってきて、近年では実際に作曲が始められたのは1745年ごろからというのが定説である(諸説ある)。

この作品においてもともと教会音楽やオルガンにおける伝統的な音楽に関わりの深かったバッハはフーガの可能性を追求し、体系的にまとめ上げた。
ところで、この作品は出版された時から現在のような評価だったわけではない。出版当時、音楽界は伝統的なポリフォニー音楽を古いものとみなしていたため、見向きもされなかったという。19世紀に入ってバッハが見直されてからようやく現在の評価になったということである。

ブランデンブルク協奏曲 (Brandenburg Concertos)【1721年献呈】

ブランデンブルク協奏曲はバッハが1721年にブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスチャン・ルートヴィヒに献呈した協奏曲集で作曲年度は不明であるが、当時バッハが就職活動をしていたことからこの作品もその一環であったと想像される。

6曲からなる管弦曲集で、協奏曲とはいえ、ラフマニノフチャイコフスキーなどの協奏曲とは異なり、それぞれの曲がソロをとるような編成である。

□バッハのピアノ以外の作品

無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ (Partitas for solo violin)【1720年頃作曲】

1720年に作曲された作品。当時ケーテンの宮廷楽長としてバッハは多くの器楽曲を作曲したが、現在、特に有名なものの一つで、無伴奏チェロと一対の作品であると言われている。

3曲のソナタとパルティータで構成されており、特に第2曲目のパルティータ「シャコンヌ」はその美しい旋律が有名で多くの楽器で演奏されている。

無伴奏チェロ組曲 (Cello Suites)【1717~23年頃(?)作曲】

この作品はバッハの傑作のひとつであり、チェロの独奏曲の中で最も有名な作品である。

しかし、実はこの作品は1904年まで忘れられた作品で、再び世に送り出したのはパブロ・カザルスであった。彼はくしくもチェロの近代的奏法を創りだした人物である。彼が13歳のときバルセロナの古本屋で見つけたことがこの作品にとってもカザルスにとっても幸運だったと言える。カザルスはその後15年研究し、世に送り出したのである。

マタイ受難曲 (Matthew Passion)【1727~36年作曲】

マタイ受難曲は1727年に作曲され、その後何度か改訂され1736年に現在の状態となった。

マタイ受難曲とは全68曲、第1部と第2部に分けて、キリストが捕まるところから処刑後までを管弦と合唱で演奏する作品である。

この作品は長い間演奏機会にも恵まれず、完全に忘れられてしまったのだが、1829年、メンデルスゾーンによりセンセーショナルな復活上演を果たし、今日での高い評価を獲得した。また、これによりメンデルスゾーン自身の評価もあがる事になった。