Johannes Brahms【1833年5月7日-1897年4月3日】
ブラームスは1833年にハンブルクの貧民外で生まれた。
彼の父は、ダンスホールなどで働き、彼の母親も内職をするような家庭であった。
父親は作曲家になることには反対し、オーケストラの一員になってほしかったようだ。
父親は特にピアノが上手だったブラームスのために、教師のもとへ向かわせた。
ブラームスの才能をあらわす例としては、彼の教師がメンデルスゾーンが死んだ際、「たとえ一人の巨匠が我々の元から去ったにせよ、同じようにすばらしい才能がこの驚くべき少年の中に花開く」と言ったということである。
ブラームスはこの教師の下で、ピアノの技巧、ベートーヴェンやバッハなどの技術を学び、15歳の頃には、演奏会とピアノ個人レッスンで生計を立てるようになっていた。また読書も多く行い、後の彼の精神に大きな影響を与えた。
しかし、リストやショパンなどとは比べることの出来ないほどの貧しさで、また彼は、サロンなどの金持ちの雰囲気になじめなかったため、パトロンを得ることも出来ない苦しい生活を続けた。
1850年9月30日は、ブラームスとシューマン夫妻にとってすばらしい出会いの日となった。
19歳のブラームスが、自らのハ長調ソナタを弾くと、43歳のロベルト・シューマンは興奮しながら妻クララを呼び、2人の前でブラームスはもう1度演奏した。ブラームスの演奏はシューマン夫妻に絶賛され、出版社に、この天才の出現を伝えた。
シューマンにはこの頃もはや音楽界における力は無かったが、大きな宣伝となった。また、ブラームスの作品の出版のお膳立てをしたのもシューマンであった。ブラームスとシューマン家のつながりは、一生消えることは無かった。
□ヨハネス・ブラームス 略歴
1833年 ハンブルクで生まれる
1839年 父親から音楽を学び始める
1845年 初めてコンサートを開く
1853年 シューマンと出会う
1855年 クララ・シューマンと旅行
1862年 ウィーンへと移住
1863年 ウィーンのジング・アカデミーの指揮者に就任する
1864年 ハンブルクへ戻る
1872年 父死去、ウィーン楽友協会芸術監督に就任する
1897年 ウィーンにて死去
□ブラームスのピアノ作品
2つのラプソディー(Rhapsody)【1879年作曲】
ブラームスのピアノ曲の中でも最高峰にある曲。この2曲はともに1879年に作曲された。
もともと出版された時は「ラプソディー」ではなく「カプリス」だった。
また、この曲はエーリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクという女性に捧げられたのだが、彼女は音楽的な才能にあふれ、また、たいへん魅力的な女性だったと伝えられている。彼女は一時ブラームスのピアノの生徒でもあったのだが、あまりに魅力的でブラームス自ら教師を降りてしまうという、ブラームスらしいエピソードもある。しかし、彼女はその後もブラームスのよき理解者であったとされている。
間奏曲 (Intermezzo)【1892年作曲】
全3曲で、全て1892年に作曲された。
どの曲も暗く寂しい。晩年のブラームスは秋から冬に向かう音楽であると、テレビでピアニストのヴァレリー・アファナシエフが言っていたがその通りだと思う。
美しい旋律の小品である。
ハンガリー舞曲集(Hungarian Dance)【1867年頃作曲】
この作品は4つの曲集で21の曲が収められた作品集である。
1853年ごろから友人でハンガリー出身のヴァイオリニストであったレメーニとともに演奏活動をしていたのだが、その際に彼から教わったハンガリーのジプシー音楽から曲想を得た。
出版されてからは大好評となり後にレメーニから「盗作である」として訴えられた。ブラームスが作曲ではなく編曲であると楽譜に書いていたため勝訴したが、編曲であるがゆえに作品番号はついていない。
また、この作品はピアノ連弾作品として出版されたが、友人ヨーゼフ・ヨアヒムによるヴァイオリン編曲をはじめ、ドヴォルザークやシュメリングによる管弦曲への編曲などがある。
ハイドンの主題による変奏曲 (Theme by Haydn)【1873年作曲】
バロック的な典雅で落ち着いた曲調。
タイトルには「ハイドン」とあるが、実際は聖歌「聖アントニーのコラール」から主題をとられている。もともとは2台のピアノ用で、初演はブラームスとクララ・シューマンによってなされた。
その後1873年、管弦楽用に編曲され、大好評を博した。1876年の交響曲につながる成功であった。
□ピアノ以外の作品
交響曲 第1番 (Symphony No.1)【1876年作曲】
この曲を完成したのは1876年、ブラームスが43歳の時だった。
ブラームスはベートーヴェンの交響曲に敬意を感じており、ベートーヴェンの交響曲に恥じない完成度の高さを求め、着想から完成までに20年かかったとされている。
ベートーヴェンの後継者たるにふさわしい曲である。
交響曲 第2番 (Symphony No.2)【1877年作曲】
この曲は1877年、第1番に比べてはるかに短い期間で作られている。
南オーストリアのペルチャッハという町に避暑のために滞在したブラームスだが、気に入ったようでその後2年間ペルチャッハで夏をすごし、ヴァイオリン協奏曲を含め他にも多くの作品を作り上げた。
またベートーヴェンの交響曲第6番「田園」とよく似た性格であるため、田園交響曲とも呼ばれる写実的な作品である。1番に比べ、激しい情感ではなく落ち着いた、穏やかな曲調である。
交響曲 第4番 (Symphony No.4)【1884~85年作曲】
ブラームス最後のシンフォニー。
この作品は1884年から1885年に書かれたもので、第1楽章は序奏もなく飾り気のないゆったりとしたどこか切ない曲調。
第2楽章は古い教会音楽の作曲技法を利用した作品。第3楽章はこの作品全体の中では明るい曲調。牧歌的でのどかな風景が感じられる。第4楽章は変奏曲の形式を採用し、対位法を用いた作品。終楽章はバッハのカンタータを主題にしている。
全体を通してバロック的な曲調の中で、壮大なドラマを感じさせる曲。
ヴァイオリン協奏曲 (Violin Concerto)【1878年作曲】
この作品は1878年に作曲された。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲はこの1作品だけではあるが、ブラームスの作曲の最盛期の作品であり、交響曲のように重厚でメンデルスゾーンやベートーヴェンと並び3大ヴァイオリン協奏曲と言われている。
この作品はブラームスがサラサーテの弾くブルッフのヴァイオリン協奏曲第2番の演奏を聴き、それ以上のものを作ろうとしたことから始まったとされており、サラサーテにこの作品は献呈されている。
悲劇的序曲 (Tragische Ouverture)【1880年作曲】
1880年、「大学祝典序曲」と同時期に作曲された。
「大学祝典序曲」が、ブレスラウ大学の名誉博士号授与の喜びに満ちているのに対し、こちらはベートーヴェンにも通じる激しく、悲劇的な作品。
しかし良い意味でドラマチックで壮大な作品だと思う。クララ・シューマンに献呈されたがその詳細は不明である。
ドイツ・レクイエム (A German Requiem)【1857~1868年作曲】
この作品は1868年に完成した。
師であり、親友でもあったロベルト・シューマンが1856年に亡くなり、彼のために1857年頃から作曲を始めた。
この作品が単なる「レクイエム」ではなく「ドイツレクイエム」となっているのは、もともと「レクイエム」がカトリック教会のものであることに由来する。
ブラームスはプロテスタント信者であった。そこでレクイエムを彼なりに作り上げたので、「ドイツレクイエム」となったのである。歌詞も聖書からブラームス自身が選んだもので作り上げられており、他のレクイエムとは一線を画している。