ショパン

Frederic Chopin【1810年3月1日-1849年10月17日】

Chopinピアノの詩人と呼ばれるショパンは、その名の通りほとんどピアノ音楽しか残さなかった。

ロマン派の代表の1人であり、現在最も愛されている作曲家の1人でもある。

ところでショパンについて語るときに避けては通れないのがサロンである。

ショパンの生きた時代、音楽家はサロンと呼ばれる、世に出ることの出来ない金持ちの女性が主に開く集まりの中で自分を売り込み、自分の後ろ盾になってもらう、というのが1つの生き方であった。

そしてショパンはサロンの寵児となり、上流階級の中で愛され続けた。

ショパンがサロンで生きられた理由の1つは、彼の風貌や立ち振る舞いであり、それが上流階級の女性の人気の的となった。

また、彼は体も手もそれほど大きくなく病気がちでもあったため、大きな音でピアノを弾くことが出来ず、リストやその他の作曲家兼ピアニストのようにコンサートホールには向いていなかった。それゆえ、逆にピアニッシモを際立たせ、華麗で甘い音色のピアノを弾いた。これがちょうどサロンに向いていたのである。

華やかなサロンでの生活とは逆に、ショパンは祖国ポーランドの状況にいつも悩まされ、また自身の病気にも悩まされながらこの世を去った悲運の音楽家でもあった。彼が死んだ後心臓だけが祖国ポーランドに運ばれ、いまもそこに眠るという。

□フレデリック・ショパン 略歴

1810年 ポーランドのワルシャワ郊外に生まれる
1814年 ピアノレッスンを受け始める
1825年 初めての出版(ロンド・ハ短調)
1826年 ワルシャワ音楽院に入学
1930年 ワルシャワで「ピアノ協奏曲1番・2番」を発表する
1831年 パリに移る
1836年 マリア・ヴォジンスキに求婚、ジョルジュ・サンドと出会う
1837年 マリア・ヴォジンスキとの恋が破局に終わる
1838年 ジョルジュ・サンドとマジョルカ島へ旅行、病状の悪化
1847年 ジョルジュ・サンドと破局
1848年 パリで最後の演奏会
1849年 マズルカを1曲書き、他界

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□ショパンのピアノ作品

ワルツ(Waltz)【1827~1848年作曲】

ワルツはショパンが生涯を通して作曲し続けたもののひとつであり、その中でも、民族色のないショパンが本当に楽しみのために書いたものである。普通ワルツはダンスのための音楽であるが、ショパンのワルツは踊れるものと、踊ることを目的としない音楽的なものの2つに分けられる。

いずれにしても彼のワルツは少人数のサロンのために書かれており、叙情的で美しく、人気の高いものである。特に子犬のワルツ、別れのワルツなどは有名で現在もさまざまな場面で耳にすることの多い傑作である。

第1番 「華麗なる大円舞曲」”Grande Valse brillante “

1833年に作曲された作品で、ウィーンのヨハン・シュトラウス1世への対抗心から書かれた作品だと言うことである。ショパンの他のワルツが踊ることを前提にしていないような曲調であることを考えれば、最もワルツ的な作品であると言えよう。

第2番 「華麗なる円舞曲」”Valse brillante”

1835年に作曲されたこの作品はショパンのワルツの中で、最も高い評価を得ている作品である。

最初の16小節の長い序奏は気分を盛り上げるとともに、この最初の一音だけ聴いてもこの曲を思い出すほど有名な曲である。

第3番 「子猫のワルツ」

この作品は1838年に書かれた。明るい曲調で、転げまわる猫を髣髴とさせる作品である。

ちなみにこのワルツの名前はショパンが作曲をしている時に猫が鍵盤に飛び乗ったことからきているらしい。

第6番 「子犬のワルツ」”Minute Waltz”

このワルツはピアノを学んだことのある人なら、一度は弾いたことがあるのではないかというほど有名なものである。

明るくテンポのよい可愛らしい曲である。しかし、曲調や難易度から想像し辛いが実はこの作品はショパンが生きている間に公開された最後のピアノ曲の一つなのである。ちなみにあまりの短さから欧米ではこのワルツを「1分間ワルツ」と呼ぶそうである。

第9番 「別れのワルツ」

1835年に作曲されたがその当時は出版等されず、結局ショパンの死後世に出た作品。

この作品はショパンの恋の相手マリア・ヴォジンスキに当てて書かれた作品だと言われている。一旦は婚約までした二人だったが結局ショパンの健康への不安などからマリアの両親の反対を受けこの恋は終わった。曲調は切なさと情熱的な部分がそれぞれ入っていてショパンの心中を想わせる。

前奏曲(プレリュード Prelude)【1831~1838年作曲(諸説あり)】

ショパンが1836年から1839年にかけて作曲した前奏曲集。24の調性によって書かれており、バッハの平均律クラヴィーアを意識したのかどうかは分からないが、それに比べても見劣りしない作品群である。

曲調は演奏時間も含め様々であるのに、全体を通して聴くと統一感を感じる傑作である。

第7番

この作品は前奏曲中最も短く16小節しかないが、美しい旋律を持っている。また前奏曲集の中で最初に書かれた作品。

「レ・シルフィード」に採用されたことでも有名な作品である。

第15番 「雨だれ」

この作品はジョルジュ・サンドとともにマジョルカ島で生活していた時、病床のショパンが、サンドのいない孤独感と外の雨音から作曲したと言われている。

第17番

この作品は落ち着いた詩的な作品である。

メンデルスゾーンはこの作品を「私はこの作品が好きだ。どれほど好きか、なぜ好きかは分からない。私には到底書けそうにないからとしか言えない」と言ったという。しかし、この作品がメンデルスゾーンの無言歌風であるとの指摘もされている。

第24番

これは「革命のプレリュード」と言っても良い作品である。曲調がエチュードの「革命」に似た楽曲である。

また、そのせいか、最後に3回響くレの音は滅び行く祖国ポーランドへの弔鐘のようだといわれてきたそうである。

前奏曲 作品45

作品45の前奏曲は1841年のベートーヴェンの記念碑を建立するための基金のために書かれた。

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夜想曲(ノクターン Nocturne)【1830~1843年作曲】

ノクターンはイギリスの作曲家であるジョン・フィールドによって作られた形式であるが、現在ノクターンと言えばショパンの作曲したものが最も有名かもしれない。ショパンの独創的かつ華麗な主題を持ったノクターンはどの作品も甲乙つけがたい傑作と言える。

また、生涯ショパンが書き続けたことから、作品の変化とショパンの人生が対比できる点も興味深い。

作品9

この作品は最初のノクターンで、1830年から1831年にかけて作曲された。

1番はパリに出る前のショパンの意気込みが感じられる旋律の美しい作品である。2番はノクターンの中でも最も有名で、様々なメディアで聴く機会の多い作品である。例えば映画「愛情物語」の中で映画の雰囲気を作る主題歌として何度も登場した。3番も優雅さと情熱が結合した名曲である。

作品15

1830年から1833年にかけて作曲された。

これら3曲も有名なノクターンで特に4番と5番はメロディを聴けば誰しも聞き覚えのある作品である。特に5番は「最上の作品」など、ショパン研究者の間で昔から様々な言葉で表現されている。6番は他の2曲に比べるとあまり知られていない。また、ショパンの手書きの原稿には「ハムレットの上演を見て」と一度書かれた形跡があり、これは現在も謎である。

作品27

1835年に書かれた作品である。第7番は感情を吐露していて、力強く、主題や構成がはっきりしているためかベートーヴェン的だと言われる。そして8番は美しい主題が形を変えながら何度も出てくる作品で、昔から「天国」と形容されてきた。

作品32

1836年から1837年にかけて作曲された。

9番は優雅でノクターン的と言えるが、同時に音楽的に冒険を試みられた作品で、メロディの中断などのアイデアが盛り込まれていると言ってもよいだろう。そして10番はレ・シルフィードにも使用されている有名かつショパンらしい旋律を持った作品である。

作品37

1839年から1839年にかけて作曲された作品で、細かい時期は分かっていないが、サンドとともにマジョルカ島に滞在した頃、着想を得たと言われている。11番は「郷愁」と呼ばれることもある作品で、文字通り物悲しさと教会を想わせる曲調。12番はサンドとともに暮らしたマジョルカ島への旅の途中で生まれた「舟歌」でノクターン全体を通して最も明るく、ショパンの心のうちを表した作品と言える。

作品48

1841年に作曲された13番と14番はノクターンの最も円熟した作品と言ってもよいだろう。そして、この作品が作曲された時期がショパンの創作活動の頂点であった。13番は壮大かつスケールの大きい男性的な作品である。また第14番は叙情的で女性的な作品で、2曲は相反する魅力を持っていると言っても良いだろう。

作品55

この15番と16番はショパンがサンドと別れた後の1843年に作曲した作品で、どちらかと言うと暗く、あまり高い評価を受けてこなかった。また、16番はノクターンというよりは即興曲風の作品である。

作品62

ショパンの最後のノクターンであるこの2曲のノクターンは1843年に書かれた。17番はショパンの持てる技術の全てをつぎ込んだかのような作品で、18番はその逆に自然体でありのままを美しく歌い上げた作品と言える。

死後出版

19番から21番はショパンの死後に出版された。19番はショパンが音楽院生の時代の習作で既にショパンが生涯書き続けたノクターンの原型が出来上がっている点を注目したい。また、20番は1830年パリに向かう前のウィーンから誕生日の姉に送った作品。21番はいまだ、作曲年代が特定されていない。1938年に初めて出版された作品である。

 

即興曲(Impromptu)【1834~1842年作曲】

1834年から1842年までの間に4曲作られている。バラード、ノクターンなどの性質や拍子なども曲によって大きく異なる。しかし、ショパンは即興が得意なだけあり、どの曲も人気の高い深みのある作品である。

第1番

1837年に作曲された作品。まだまだ若い頃の作品ではあるが、完成された楽曲。両手の3連符が多く用いられ「水の精」とも言われる美しい曲である。

第2番

1839年の作品で夜想曲風の始まりで、変奏曲形式。転調しながらも落ち着いた曲調となっている。

第3番

1842年に作曲された。夜想曲のような曲調で、3連符とアルペジオが印象的な楽曲である。

第4番 「幻想即興曲」

1834年、24歳で作曲された即興曲だが、最後に出版された作品である。ショパンの友人であったユリアン・フォンタナがショパンの死後改稿し、タイトルをつけ発表した。「幻想」はショパンの考えではなく、ショパン自身は単なる即興曲としていた。左手の激しいアルペジオが印象的な楽曲である。

 

練習曲(Etude)【Op.10:1829~32年、Op.25:1832~36年作曲】

これらの作品は練習曲という名ではあるが、ツェルニーなどの練習曲とは大きく趣が異なる。ピアニストのための練習曲と言っても過言ではなく、単なる練習曲の域を超え、その独創性や芸術性は突出している。出版された当初から練習曲としての賛否はあったということである。それぞれの作品の作曲年度は正確には分からず、どうやら、故郷ワルシャワにいた頃から作品10は書き始められ、作品25も作品10の終わりごろには平行して作曲されていたようである。

作品10-3 「別れの曲」

ショパンの作品としても、クラシック音楽の中でもあまりに有名な作品。冒頭からの旋律は誰でも知っているといっても過言ではない。ショパン自身も友人に「これまでこれほど美しい旋律を書いたことがない」と語ったという。旋律と和声を鍛えるための練習曲である。

作品10-5 「黒鍵」

この作品は文字通り、黒鍵の練習のための曲である。右手は黒鍵ばかりを弾くため、多くのピアニストがその超絶技巧を示すために弾いてきたが、この作品も他の練習曲同様きらびやかで単なる練習曲の域を超えた作品であると言えよう。

作品10-12 「革命」

祖国ポーランドからパリに向かうショパンが聞いたロシア軍がポーランドに侵攻したという悲劇的な知らせ。怒り悲しんだショパンがその時に作曲したのがこの作品である。ショパンの自分にはどうすることも出来ない苦しみと同時に祖国への激励が感じられる作品である。右手のオクターブも象徴的であるが、主に左手のための練習曲である。

作品25-1 「エオリアンハープ」

この練習曲は分散和音の練習曲として書かれている。左手と右手の分散和音の中から旋律が浮かび上がるという仕掛けで、シューマンが高い評価を下している。ちなみに「エオリアン・ハープ」と呼ばれるが、誰が何を指して呼んだのかは不明である。

作品25-11 「木枯らし」

非常にエネルギッシュでスケールの大きな作品である。しかも短調であるが故の切なさも含んだ作品25の中でも最も人気のある作品の一つ。ハンス・フォン・ビューローも「オーケストラに匹敵する豊かな音」と絶賛した。

作品25-12 「大洋練習曲」

この作品は25-1と同じく分散和音の練習曲である。波のうねりを思わせる曲調から「大洋練習曲」と呼ばれる。こちらは25-1とは異なり、音の強弱によって旋律を浮かび挙げる仕組みとなっている。

モシェレスとフェティスのメトードの練習曲(3つの新しい練習曲)【1839頃】

これは24の練習曲以外にショパンの作曲した練習曲で3曲の練習曲からなっている。1839年頃に作曲された。近年演奏される機会が増え、エチュード全集に収録されることも増えた。

 

マズルカ(Mazurka)【1830~1849年作曲】

マズルカは4分の3拍子のショパンの母国ポーランドの民謡であり、踊りのための曲だが、ショパンの作ったものは踊れないものが多い(「レ・シルフィード」のように、バレエでつかわれるものもある)。60曲以上作られており、ショパンの代表的な作品である。

 

ポロネーズ(Polonaise)【1817~1846年作曲】

「ポロネーズ」とはポーランドの舞曲で、ショパンは「マズルカ」とともに生涯にわたって作曲し続けた。マズルカが円舞風だとするとこちらは行進曲風である。特に3番「軍隊」、6番「英雄」などは威風堂々としており男性的な曲調である。

バラード(Ballade)【1831~1842年作曲】

バラードとはもともと文学を音楽で表現するものであった。しかし、ショパンはもともと作品に名前をつけることを嫌っていた。そこでショパンの作品に限っていうと、もちろん、ポーランドの詩人ミツキエヴィチの詩をモチーフにしてはいるのだが、自由な思索の作品であるといえよう。

第1番

この作品は1831年から1835年にかけて作曲された。作曲にかけた4年という歳月はショパンにしては長く、力作であるといえよう。

序奏から荘厳で宗教的とも思えるほどで、その後を期待させてくれる。そして、その後の幾度となく出てくる主題は美しく力強く1番にして完成されつくした感のある傑作である。
シューマンがこれに感動し、「クライスレリアーナ」を献呈したのも肯ける内容である。

第2番

1836年から1839年にかけて作曲された作品。この作品も1番同様、3年もの歳月をかけて作曲された。
バラード1番を高く評価してくれたシューマンに献呈されたが、この作品に対するシューマンの評価は1番ほど高くなく、「1番のほうがよかった」と言われた。しかし、風景描写という意味においてはこちらの方が評価され、批評家によっては1番以上に高い評価を下されることもある。

第3番

この作品は1840年から書き始められ、1841年に完成した。

全4曲のバラードの中で最もサロン的とも言われる作品である。曲調は軽やかで、旋律も美しい。

イギリスの画家が、この作品を聞いて、天駆ける白馬を描いたというエピソードも有名な作品。

第4番

この作品は1842年に書かれた。

バラードは若々しい1番、情景描写の2番、爽快な3番と、それまでの全てが人気のある評価の高い作品であるが、この4番こそが最もショパン的な旋律を持ち、円熟した内容の最高傑作であるとの声も多い。

ある批評家は「このバラードで本が一冊書ける」と言ったとか。主題はいくつかあるが、それぞれがショパン的であり、最後のカデンツァに導いていく。そして最後の圧巻のカデンツァは最高に長く息を呑むほどの美しさと言えるだろう。

スケルツォ(Scherzo)【1831~42年作曲】

ショパンはスケルツォを生涯で4曲作曲しており、ショパンの技巧と情緒が盛り込まれた作品である。スケルツォとは「冗談」と言う意味で、もともとはベートーヴェンが交響曲の中で第3楽章をメヌエットからスケルツォに変えたことから生まれたものであるが、ショパンはそのスケルツォをピアノで自分の内面を表現するために使ったのである。

第1番

この作品は1831年から1832年にかけて作曲された。特にこの作品の書かれ始めた1831年はショパンがパリに出てすぐで、祖国ポーランドがショパンの出国後ロシアに侵攻されたことへの怒り、悲しみが直接的に表現されていると言っても良いだろう。特に最初の不協和音が祖国を想うショパンの苦しみを表現している。

第2番

この作品は1837年に作曲されたが、この頃ショパンはマリア・ヴォジンスカとの恋に破れ、かわってジョルジュ・サンドと出会った。1番とはうって変わったやさしい情緒が溢れる楽曲で、シューマンが、「やさしさと大胆さ、愛らしさと憎しみに満ちている」と評価した4つのスケルツォの中で最も人気のある作品である。

第3番

この作品は1839年、ジョルジュ・サンドと暮らしたマジョルカ島から帰ってきた後作曲された。実際はマジョルカ島に滞在していたときから構想はあったらしいのだが、この作品は完成するのに非常に苦労したらしい。弟子に宛てた手紙の中でもそのことに触れている。結局完成したが、この作品は力強く演奏されることをショパン自身も期待し、グートマンという弟子に献呈された。

第4番

この作品は「冗談」という意味のある「スケルツォ」に最も相応しい作品である。1842年、ショパンの体調が徐々に悪くなる頃作曲された。しかし、この時期は創作意欲は高く、円熟の域に達したショパンの最高傑作のいひとつという呼び名も高い。

 

ピアノソナタ(Piano Sonata)【1828~44年作曲】

ショパンはその短い生涯において3曲のピアノソナタを作曲した。これはショパンの全作品数から考えるとベートーヴェンやモーツァルトと比較するまでもなく非常に少ないと言えるだろう。この理由の一つは古典派からロマン派への変化の中、音楽で心情を吐露する上でソナタ形式という堅牢な形が好まれなくなったこと。さらにショパンの場合、彼の作曲の先生がソナタを強要したことなどが挙げられる。しかし、最初のソナタこそあまり乗り気でなかったショパンだが、2番、3番は自らの意思で取り組みショパンらしい独創的なソナタを書き上げている。

ピアノソナタ 第2番 「葬送」

この作品は1837年から1839年にかけて作曲された。

曲は4楽章から成り、特に第3楽章の「葬送行進曲」は有名である。

この2年前に「葬送行進曲」が独立した作品として作曲されており、3楽章に挿入された経緯がある。

また、第4楽章のあまりの特異さゆえにシューマンが「音楽ではない」と言ったことも付け加えたい。このソナタは暗く悲しい主題と穏やかで優しい主題によって構成されていて、ショパンの独創性と叙情性が発揮されている。しかし、作曲された当時はその独創性ゆえ、「ショパンはソナタをしっかり学んでいない」などの非難が起こったという。

ピアノソナタ第3番

この作品は1844年に書かれた。

ショパンの父が亡くなり、その悲しみから病気に伏せた彼が14年ぶりの姉との再会によって作曲への意欲を取り戻し、作曲されたと言われている。

第2番では構成の面などであまりに独創的だったため非難が起こったが、こちらは構成もしっかりされており、そのスケールの大きさからも評価が高い。また、スケールの壮大さだけでなく、第1楽章から第4楽章までショパンらしい美しい旋律が溢れており音楽の素晴らしさを改めて教えてくれる傑作である。

 

舟歌(Barcarolle)【1845~46年作曲】

1845年~46年の作品。ショパンの人生も残りわずかとなった時期の作品。

当時ジョルジュ=サンドとショパンの関係は絶望的となり、それでもジョルジュ=サンドの別荘で作曲された。舟歌とはいうものの、ショパンの心情が色濃く表現されている。

ピアノ協奏曲(Piano Concerto)【1829~30年作曲】

ショパンは生涯で2曲のピアノ協奏曲を作曲した。そして、それらはどちらも20歳前後という若い時期の作品である。

これらの作品は出版の関係で先に作曲されたヘ短調が2番で、後で作曲されたホ短調が1番となっている。

これらのピアノ協奏曲はオーケストラパートが稚拙であるという評価もよく聞かれるが、それらを加味しても十分傑作と言えるだろう。

第1番

この作品は1830年、ショパンが祖国ポーランドに別れを告げる直前に作曲した作品である。

出版はその3年後パリでされ、当時パリで人気だったピアニスト「カルクブレンナー」に献呈された。

この作品はまず第1楽章の2つの主題が明暗はあるが、どちらも美しい旋律で魅了される。第2楽章は作曲家自身が「美しい春の月明かり」と表現したノクターン。第3楽章がロンドで、軽快なテンポでこの作品を締めくくっている。

 

第2番

この作品は制作順で言えば1番にあたり、1829年ウィーンでのデビュー後に作曲された。

この作品はおよそ3ヶ月で作曲されたが、出来は素晴らしく、初演も大好評を博した。第1楽章はこの協奏曲の性格を表すかのごとく、さわやかで澄んだ楽章。第2楽章は初恋の相手、コンスタンチア・グワドコフスカへの思いを込めたといわれるラルゲット。第3楽章ではショパンが生涯作曲し続けたポーランドの民族舞踊であるマズルカのリズムを使用した民族色豊かな作品である。

□ピアノ以外の作品

レ・シルフィード(Les Sylphides)【1907年作曲】

この作品はショパンの手によるものではないが、ショパンの前奏曲、夜想曲、ワルツ、マズルカをオーケストラに編曲したもので、ロシアバレエ団の振付師であったフォーキンが思いついたとされている。バレエは全部で8曲からなっており、様々な人物によって編曲されているが、いずれもショパンの詩情やロマンティシズムを壊さない素晴らしいオーケストレーションである。ちなみにレ・シルフィードとは「風の精」という意味である。