ドヴォルザーク

Antonin Dvorak【1841年9月8日-1904年5月1日】

Dvosakドヴォルザークはオーストリア帝国の一部分であったボヘミア(現在のチェコ)のネラホゼヴェスで1841年に生まれた。

彼の父親はツィター、伯父もトランペットを吹く家系であったが、宿屋や肉屋を経営する家系であった。

ドヴォルザーク自身も小学校でヴァイオリンを学び始めると天賦の才能を見せ始めた。

しかし、両親は経済的にも余裕がなかったことから彼を音楽家にするつもりはなかった。

彼が音楽の勉強を続けることが出来たのは彼の伯父によるものが大きく、1857年にプラハのオルガン学校に入学ることが出来たのも伯父の経済的援助のおかげであった。

彼の音楽家としての道のりは険しいもので、ヴィオラ奏者やプラハ国民歌劇場のヴァイオリン奏者として糊口をしのぎつつ暮らしていたが、1866年たまたま彼の所属するオーケストラの指揮者にスメタナが選ばれたことは、スメタナを尊敬する彼にとってまたとない勉強の機会となった。

またその頃の作曲は、ワーグナーから最も影響を受けたといわれている。

ドヴォルザークが認められたのは1877年、36歳の時で、ブラームスと出会った頃からである。その後ブラームスの紹介で批評家によって認められ、「モラヴィア二重唱曲集」が出版されることとなった。さらに同出版社から「スラヴ舞曲集」が出版され、この出版のおかげでウィーンにおいて認められた。

その後1888年にチャイコフスキーと交流を持ち、創作活動の面でも充実していた。

しかし、ボヘミア独立運動の台頭とともに、彼の気持ちは常に揺れ動くこととなった。

彼の最も有名な作品である「新世界より」は、1892年から94年、アメリカのニューヨーク国立音楽院の院長として招かれた時期に作曲された。

4年後ボヘミアに帰り、オペラや交響詩などに意欲的に取り組んだが、あまり高い評価は得られなかった。

交響曲で有名なドボルザークだが、室内楽に生涯取り組み続け、そちらの評価も高い。

彼は1904年に亡くなり、チェコの名誉ある一人として国葬が行われた。また、名前はドイツ語の発音の関係でドボルジャークとも呼ばれている。

□アントニン・ドヴォルザーク 略歴

1841年 プラハで生まれる
1847年 ヴァイオリンを習い始める
1857年 プラハのオルガン学校に入学
1866年 カレル・コムザークオーケストラでスメタナに教えを請う
1873年 アンナ・チェルマーコヴァーと結婚
1874年 プラハの聖ヴァイオチェフ教会のオルガニストに就任
1875年 オーストリア政府から奨学金をもらい始める
1888年 チャイコフスキーと親交を結ぶ
1890年 プラハ音楽院の教授に就任
1892年 ニューヨーク・ナショナル音楽院教授に就任
1894年 ニューヨークフィルハーモニーの名誉会員になる
1895年 プラハに帰国
1901年 プラハ音楽院の院長になる
1904年 死去

□ドヴォルザークのピアノ作品

スラヴ舞曲集(Slovanske tance)【1集:1878年、2集:1886~87年作曲】

ブラームスによって認められ世に出たドヴォルザークが恩人ブラームスの助言で作曲した作品。

1878年に第1集が作曲され、1886年に第2集が作曲された。

もともとは連弾用だったが現在はオーケストラで演奏されることがほとんどである。その編曲もドヴォルザーク自身がピアノ連弾用の楽譜が出版されるとすぐにおこなった。

この作品は東欧を中心とした民族色豊かな舞曲集である。そのリズムはフリアントやポロネーズからドゥムカ、ポルカなどで魅力的なものである。

□ドヴォルザークのピアノ以外の作品

交響曲 第7番(Symphony No.7)【1884~85年作曲】

この作品が作曲されたのは1884年で、ロンドン・フィルハーモニー協会からの交響曲の依頼に応えて書かれた。

全体を通してスラヴ的な旋律が印象的である。第1楽章は導入から弦によるスケールの大きなテーマが力強く演奏される。ドヴォルザークの序曲「フス教徒」に使用された旋律がここでも使われている。第2楽章は対位法を利用した穏やかな曲調だが、後半から力強い曲調へと変わる。第3楽章はスラブ的な旋律とリズムを奏でるヴァイオリンが象徴的である。第4楽章は第1楽章の主題をもう一度取り上げ、さらに第1楽章よりもスケールの大きい曲である。

交響曲 第8番 (Symphony No.8)【1889年作曲】

この作品は1889年に書かれた作品。

プラハの郊外のヴィソカ村に別荘を持っていたドヴォルザークはのどかな環境で作曲活動を行った。その影響もあってかこの子の交響曲8番は穏やかな曲調である。

第1楽章はソナタ形式で叙情的な曲調。第2楽章はヴァイオリンによる主題が美しい曲。第3楽章はドヴォルザークのオペラ「がんこ者たち」のアリアも使われている。第4楽章は変奏曲、スラブの情緒が幾度となく行われる変奏の中で歌われる。

ちなみにこの作品は楽譜がイギリスで初めて出版されたため、「イギリス」と呼ばれることもある。

交響曲 第9番 「新世界より」 (Symphony No.9 “From the New World”)【1893年作曲】

この作品は1893年に作曲され、93年にニューヨークフィルによってカーネギーホールで初演され大好評を博した。

ドヴォルザークの作品の中でも最も有名な作品である。

第1楽章は静かに始まり、劇的に激しくなり主題を呼び起こす。第2楽章は歌詞がついて、「家路」というタイトルの歌にもなっていて日本人にもなじみのある暖かい旋律。第4楽章はドヴォルザークがアメリカで聞いた黒人音楽などの様々な民族音楽と彼の母国ドイツの伝統的な交響曲の形式を上手く融合させたもの。

ドヴォルザークの代表作であり傑作である。

チェロ協奏曲 (Cello Concerto)【1894~95年作曲】

この作品は1892年からアメリカでナショナル音楽院に招かれていたときに構想が練られ、帰国直前に書かれた。

黒人音楽やネイティブアメリカンの民謡などもモチーフとしており、ドヴォルザークの代表作のひとつといっても過言ではない。

ブラームスはチェロ協奏曲を書こうとして他の作曲家の作品を研究中にこの作品に気がつき、「これ以上の作品は書けない」と言って作曲を断念したとも言われている。

また独奏チェロとオーケストラが完全に融合した作品で第1楽章から第3楽章まで存在感のある主題があり、特に最後のカデンツァに向けてヴァイオリンとチェロが掛け合いながら進んでいくところが圧巻である。