マーラー

Gustav Mahler【1860年7月7日 – 1911年5月18日】

Mahlerグスタフ・マーラーは、決して恵まれた環境の作曲家とは言うことができない。

彼はユダヤ人の子として生まれたが、父親は、暴力的で支配的な暴君であった。母親は病気がちで、妹や弟も多くいたが、ほとんどが早くに死んでしまった。

マーラーは作曲家と指揮者として有名だが、どちらもなかなか軌道に乗ることは出来なかった。

そこにユダヤ人であるという偏見も無かったとは言い切れない。例えば、ウィーン国立歌劇場の音楽監督就任に際しても、リストの娘であり、ワーグナーの妻であったコジマに反対されていることからも明らかである。

指揮者としての彼は、暴君、厳格で知られているが、その才能は皆の知るところであったし、彼は雇い主に気にいられるようにと音楽以外ではひげを切ったり様々なことをした。また、チャイコフスキーは彼の指揮を聴き、手紙で「ここの指揮者は只者ではない、まさに天才なのだ」と1892年に書いている。

作曲家としてはリストやその弟子のハンス・フォン・ビューローに無視されるなどしたが、1886年ごろからのウェーバーの遺稿の修復でその才能を大きく評価された。

また、彼は晩年、交響曲10番を書くことを恐れた。ベートーヴェンシューベルトも第10番を書く前に死んだからである。そのため彼は第9番を「大地の歌」として、次に第9番(第10番として)を書こうとした。しかし、結局彼は第9番を作り上げることなく死去した。

□グスタフ・マーラー 略歴

1860年 チェコで生まれる
1865年 ピアノのレッスンを受け始める
1875年 ウィーン音楽院入学
1880年 ハルのオーケストラ指揮者就任
1885年 プラハの劇場で主席指揮者に就任
1891年 ハンブルク歌劇場指揮者就任
1894年 ブラームス、ブルーノ・ワルターと出会う
1898年 ウィーン・フィルハーモニーの指揮者に就任
1902年 アルマ・シントラーと結婚
1908年 メトロポリタン歌劇場、ニューヨークフィルの指揮者に就任
1911年 ウィーンで死去

□マーラーのピアノ以外の作品

交響曲 第1番「巨人」(Symphony No.1 “Der Titan”)【1885~88年作曲】

この作品は1885年から1888年にかけて作曲された。

「巨人」のタイトルはドイツロマン派の作家ジャン・パウロの小説からとられたが、内容とはそれほど関係が無く、マーラー自身の青春時代の様々な気持ちを表現している。

また、この作品の中にはマーラーの歌曲「さすらう若人の歌」の旋律が使われているが、そのあたりにもマーラーの青春時代の失恋など個人的な感情が出ていることにも注目したい。

交響曲 第2番「復活」(Symphony No.2 “Auferstehung”)【1888~94年作曲】

この作品は1894年、マーラーの敬愛する指揮者ハンス・フォン・ビューローがカイロで亡くなり、その葬儀に際し、教会で聞いたクロプシュトックのコラール「復活」から着想を得たといわれている。

第1楽章はマーラー自身「葬送の儀式」と呼んだ。そして第3楽章から第5楽章にかけては休みなしで演奏され、特に合唱曲付の第5楽章の盛り上がり方はマーラーらしくスケールの大きい荘厳な曲調である。

交響曲 第4番 (Symphony No.4)【1900年作曲】

この作品はマーラーが40歳の夏に作曲された。

マーラーの弟子であり、大指揮者のワルターはこの作品を「天上の愛を夢見る牧歌」と形容したと言われている。

そのような曲調から一般にも「大いなる喜びへの賛歌」と呼ばれることもある。マーラーの交響曲の中では最も規模が小さく4楽章構成である。鈴の音で第1楽章が始まるなど随所にマーラーの個性は光るが、内容はどちらかというと古典的であるといっても良いだろう。

交響曲 第8番「千人の交響曲」(Symphony No.8 “Symphonie der Tausend”)【1906年作曲】

この作品はマーラーが作曲した8番目の交響曲であり、その長大さゆえに「千人の交響曲」と呼ばれている。

もともとマーラーは交響曲に合唱を入れることを好んだが、特にこの作品では2つの混声合唱団、児童合唱団、8人の独唱者を必要とし、パイプオルガンも使うために、オルガン奏者も必要である。

2部形式で、1部は聖書から、2部はゲーテの「ファウスト」が歌詞となっている。