メンデルスゾーン

Felix Mendelssohn【1809年2月3日-1847年11月4日】

mendelssohnメンデルスゾーンは、当時を今から振り返れば特殊な音楽家であった。

まず、その血統から特殊で、多くの音楽家は、音楽家の家に生まれていた。

しかし、メンデルスゾーンの父は裕福な銀行家であり、祖父は哲学者、伯母はサロンを開いているという、立派な社会的にも上流階級出身なのである。

彼は小さな頃から家庭教師の下で、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、英語、数学に加え、水泳や乗馬、図画、そして音楽などあらゆる学問を身につけた。

さらに12歳からは多くの国を旅行してまわるなど英才教育を受けた。

ユダヤ人として差別も一部あったが、経済的に裕福であったため、彼がそれを不幸と考えることはなかった。

父親は医者にしたかったようだが、本人の希望もあり、音楽家、特にピアニストの下に息子を連れて行って将来を相談した。

その結果ワイマールとロンドンで彼はピアニスト、作曲家、さらには指揮者としての名声を確立し、その後も多くの国をまわり、音楽家としての活動をする。

しかし、その後のウィーンやイタリアでは思ったような成果はならず、パリへと向かった。パリではショパンと出会い、共にすごしたが、パリでもやはりうまくはいかなかった。

そして再び名声を確立したロンドンに向かい、大成功する。そして、1832年ジングアカデミーの責任者としてドイツに戻ったのであった。

メンデルスゾーンはその裕福な生い立ちによって、経済的には問題が無かったが、音楽家としては、不利なことが多かった。彼の向上心を妨げた高い教養は、無知な音楽家の中で孤立した。そして、ユダヤ教徒であった事実は成人してから彼の周りに付きまとうこととなってしまった。

□フェリックス・メンデルスゾーン 略歴

1809年 ドイツのハンブルクで生まれる
1814年 母から音楽を学び始める
1816年 ピアノ教師の下で本格的に学び始める
1821年 ヴァイマールでゲーテと出会う
1828年 ベルリン大学に入学
1830年 2年間のヨーロッパ旅行に出る
1833年 ベルリン・ジング・アカデミーの指導者選挙に落選
1834年 パリでショパンと出会う
1835年 ライプツィヒ市の音楽監督に就任、父死去
1837年 セシル・ジャンルノーと結婚
1843年 ライプツィヒ音楽院を開校
1847年 ライプツィヒにて死去

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□メンデルスゾーンのピアノ作品

無言歌集(Songs Without Words)【1829~45年作曲】

「無言歌」とは「言葉の無い歌」「器楽による歌曲」という意味で、「夜想曲」や「スケルツォ」のような一つの音楽形式を表しているといってよいだろう。

チャイコフスキーなども後に無言歌を作曲しているが、初めてこの言葉を作り出したのがメンデルスゾーンである。

作曲は1829年、メンデルスゾーンが20歳のときから始まり、1845年、死の2年前まで作曲され続けた。全8巻48曲からなる無言歌には標題がついているがその5分の4ほどは出版社がつけたものである。

特に「春の歌」などは特に有名でこれは作曲家本人がつけたとされている。

□メンデルスゾーンのピアノ以外の作品

交響曲第1番(Symphony No.1)【1824年作曲】

1824年に作曲されたメンデルスゾーン15歳のときの作品。

当初メンデルスゾーンは「弦楽のための交響曲」が12曲あったので「交響曲13番」として書いたのだが、出版社が「弦楽のための交響曲」を認めなかったため、交響曲1番として出版された。

またこの初演はライプツィヒで行われたが、その後ロンドンでも行われ、それぞれ大成功であった。

第1楽章は若き作曲家の挑みかかるような主題でその後も美しい旋律に溢れている。第2楽章は穏やかである種の荘厳さが感じられる。第3楽章はメヌエットだが、非常に早く快い。そして、第4楽章だが、カノンのような音の掛け合いなど新鮮で面白い展開を見せてくれる。

交響曲第2番 賛歌(Symphony No.2 “Hymn of Praise”)【1840年作曲】

1840年の作品。グーテンベルクの印刷技術発明400周年を祝う形で作曲された。

この作品の特徴はベートーヴェンの交響曲第9番を思わせる声楽つきというところである。初演された当初は高評価だったが、徐々に演奏される機会が減っていき第2次世界大戦後に掘り出されるまでは忘れられた存在だったという。

この作品は2部構成で第1部は3楽章からなるシンフォニアで第2部が9曲の声楽で構成されている。

交響曲 第3番 「スコットランド」(Symphony No.3 “Scottish”)【1830~1842年作曲】

この作品がメンデルスゾーン最後の交響曲である。

メンデルスゾーンの交響曲は作曲年代と作品番号が一致しない。1番→5番→4番→2番→3番の順に作曲された。

作曲は1842年でメンデルスゾーン自身の若き日のスコットランド訪問、特にエジンバラのメアリ・スチュアートの宮殿跡で栄枯盛衰を感じたことが作曲の原点となっている。

第1楽章は哀切で幻想的な旋律で落ち着いた楽章である。第2楽章はスケルツォ風でそよ風のような爽やかな楽章。第3楽章は落ち着いた音楽と行進曲。第4楽章は悲壮感を感じさせる旋律が続く。しかしコーダで突然曲調が変わり、明るく終わる。

この作品はヴィクトリア女王に献呈された。

交響曲 第4番 「イタリア」(Symphony No.4 “Italian”)【1831~1833年作曲】

この作品は1833年に作曲された。

この作品は1830年から1831年のイタリア旅行が作曲のモチーフとなっている。

初演時から人気があり、現在もポピュラーな交響曲である。

第1楽章はヴァイオリンのピチカートに続き細かいリズムの演奏で始まる。躍動感に溢れるヴァイオリンの旋律がこの楽章の性格を作る。第2楽章は短調の落ち着いた旋律が流れる。第3楽章は穏やかなメヌエットのような曲。メンデルスゾーンらしい詩情に溢れた無言歌。第4楽章はタランテラのリズムの舞曲で「サルタレロ」という当時流行していた民衆の踊りを取り入れている。ラテン的情熱を感じる音楽である。

交響曲 第5番 「宗教改革」(Symphony No.5 “Reformation”)【1830年作曲】

アウクスブルクの信仰告白の300周年というキリスト教のルター派の記念式典のために1830年に作曲された作品。

しかし、結局その祭典には間に合わせることが出来ず、しかも初演も様々な理由で見送られ、ようやく1832年に初演された。

第1楽章は厳粛でまさに「宗教改革」である。そして、第2楽章、第3楽章は美しい旋律で明るい局長である。第4楽章にはルターの詞による賛美歌も入っており、格調高く、それでいて喜びに満ちた音楽である。

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弦楽のための交響曲(Symphonies for Strings)【1821~22年作曲】

この作品は13曲あり、メンデルスゾーンが12歳から14歳のときに書かれた。

メンデルスゾーンがモーツァルトと並び天才と称される理由ははこの作品が端的に表している。

内容は演奏楽器も弦楽器のみと潔く、管が無いせいもあるのか、格調高くも爽やかな印象の作品である。

ヴァイオリン協奏曲(Violin Concerto)【1838~44年作曲】

美しくどこか切ない曲調でベートーヴェンブラームスの協奏曲と並び、世界で最も有名なヴァイオリン協奏曲の一曲である。

この曲は1838年から1844年にかけて作曲された。当時メンデルスゾーンが指揮していたゲヴァントハウス管弦楽団にメンデルスゾーン自らがコンサートマスターとして招いたフェルディナント・ダーヴィットの協力で制作されたが、メンデルスゾーンが当時忙しくなかなか完成しなかったためダーヴィッドに急かされ、結局完成まで6年もかかってしまった。

初演はメンデルスゾーン自身が指揮をする予定だったが体調が悪かったため代役を立てることになったが大成功を収め、メンデルスゾーンの代表作となった。

真夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream)【1826~43年作曲】

この作品はシェイクスピアの演劇「真夏の夜の夢」に曲をつけたものである。

全13曲で出来ており、この劇が喜劇であることから曲調も明るくのびのびとした作品となっている。1826年にメンデルスゾーンは17歳でこの劇に傾倒して序曲を作曲した。また、1843年には12曲の作品を書き、その中の結婚行進曲は特に有名である。

ちなみにこの劇の内容は妖精王オベロンとその妻であるタイタニアにまつわる物語から、人間の恋まで様々に描いた幻想的で明るいものである。