ラヴェル

Maurice Ravel【1875年3月7日-1937年12月28日】

ravelラヴェルはフランスのバスク地方で生まれた。バスク地方はスペインとの国境近くで、バスク語という独特の言語を持つ特殊な地域である。

ラヴェルを語る上で欠かせないのはラヴェル事件である。ラヴェル事件は、彼がパリ国立音楽院に在籍中に起こった事件である。当時作曲家の登竜門的コンクールであったローマ大賞に、ラヴェルが5回挑戦し、最高3位まで上り詰めたが、年齢が若すぎるなどの理由から落選させられた。
これに対し批判や抗議が相次ぎ、当時のパリ音楽院院長のテオドール・デュボアが辞任する騒ぎとなった。この事件は皮肉にもラヴェルの名を広めることとなった。

彼はパリ音楽院時代、フォーレ等に学び、その後作曲活動を精力的に行った。

第1次世界大戦にも従軍したが、友人を多くなくし、心を痛めた。戦争後もアメリカへの演奏旅行などの活動を続けたが、1932年パリで交通事故に巻き込まれ、その後は、事故の後遺症に苦しみ、病院で亡くなった。

また、売春宿に通うことが問題ともなり、生涯結婚はしなかった。写真なども多く残っており、彼の性格の暖かさや友人の多さなどが見てとれる。

□モーリス・ラヴェル 略歴

1875年 フランスで生まれる
1882年 ピアノを学び始める
1889年 パリ国立音楽院に入学
1901年 ローマ大賞3位
1928年 初の渡米、演奏旅行
1932年 パリで自動車事故に巻き込まれる
1937年 死去

□ラヴェルのピアノ作品

水の戯れ (Jeux d’eau)【1901年作曲】

1901年、リストの「エステ荘の噴水」に刺激を受けて作曲された。ソナタ形式だそうだが、とてもそうは思えない。

ラヴェルらしい色彩豊かな音の洪水なのに、なぜか目を閉じれば静かな水を感じさせる。

マ・メール・ロワ (Ma Mere l’Oye)【1910年作曲】

これはピアノ連弾用に書かれた5曲からなる組曲である。

1908年から1910年までに作られた。「マ・メール・ロワ」とは童話作家ペローの同盟の著作から取られている。

おとぎ話の中の悲しみや喜び、登場人物の動きが鮮やかに表現された傑作。

古風なメヌエット (Menuet Antique)【1895年作曲】

1895年に書かれた初期のメヌエット。

若き日のラヴェルの作曲ではあるが、既にラヴェルらしい雰囲気の作品となっている。

ピアノ協奏曲 (Piano Concerto)【1929~31年作曲】

この作品は1931年、ラヴェルの晩年に作曲された。

この作品が作曲されたのはラヴェルの1928年に続く2度目のアメリカへの演奏旅行のためであった。

古典的形式の上でラヴェルらしく、ジャズの要素も取り入れられた作品で、特に同時期に作曲された「左手のための協奏曲」に較べると力強さはそれほど無いが、ラヴェル自身が「ハイドンモーツァルトのような」と形容したように洗練された優雅な曲調である。

左手のためのピアノ協奏曲 (Piano Concerto for the Left Hand)【1929~31年作曲】

この作品は第1次世界大戦で右腕を失ったオーストリアのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの依頼で1929年から1931年にかけて作曲された。

ヴィトゲンシュタインは当時の有名な作曲家であるプロコフィエフR・シュトラウス、シュミットなどにも同様の作品を依頼したが現在最も有名なのがラヴェルの作品である。

この作品はピアノ協奏曲であるが、楽章に分けられていない。その中で、ジャズの要素も取り入れるユーモアさを発揮し、ハープや打楽器を効果的に使うことで左手だけだということを感じさせないほどの豊かな響きを感じさせる傑作である。

□ピアノ以外の作品

ボレロ(Bolero)【1928年作曲】

この作品は様々なソロ楽器が出てくるため、「楽器の展覧会」とも言われる作品。

1928年ロシアのバレリーナであったイダ・ルビンステインの依頼で作曲された。

18回2つの主題を繰り返し、最後の2小節のみ転調するという不思議な作品だが、全く飽きさせない。

「オーケストラの魔術師」と呼ばれたラヴェルならではの作品といえるだろう。

メディアで使われることも多く、フィギュアスケートや映画などで流されることが多い。