シューマン

Robert Alexander Schumann【1810年6月8日-1856年7月29日】

Schumannロベルト・シューマンはショパンと同じ年に生まれ、リストよりも1歳年上である。しかし、音楽教育でいうと、2人に大きく水をあけられてしまう。

シューマンの父は書籍商で、息子を音楽家にするなどとは夢にも思っていなかった。シューマンは町のオルガニストにピアノをならった。しかしそれは不完全なものであった。

その後、ピアニストを志したが、父の死によってこの計画も頓挫する。

結局母の希望に従い、ライプツィヒ大学で法学を学んだ。ここで後の妻クララの父親であるフリードリヒ・ヴィークとも面識を得ることとなった。

さらに友人と共にハイデルベルク大学に移ったが、ここで彼はピアノの練習に没頭した。そして母親からの許しを得て、ピアニストとしての道を進み始めた。

この頃、ヴィークの家に寄宿し、クララとの関係が強くなっていった。その後、彼を中心に急進的な内容の音楽雑誌を発刊し、ショパンもこの雑誌の中で紹介した。さらにメンデルスゾーンと知り合い、親交を深めた。

クララとの関係については、1835年にクララとの婚約を求めたが、父親に断られ、シューマンは自らの地位と経済力の確立のため、ウィーンに向かう。

しかし、ウィーンでは思った成果が上げられず、ライプツィヒに戻った。そして再び求婚するが認められず、結局裁判で争い、1840年、クララと結婚したのだった。

この後10年間ほどが、彼の最も幸福で最も充実した日々だった。というのも、徐々に彼の精神は冒され、1856年にはライン川に投身自殺をはかった。

このときは助けられたが、1856年彼は、妻の腕の中で46歳という若さでこの世を去った。

シューマンは新しい和声行進、自由な形式によって自らの主観を表現することにおいて、ショパンリストよりも優れており、この時代を先導する立場だったのは確かである。

一世を風靡したワーグナーと比べると、シューマンの変革は内面的であるがゆえに気づきにくいが、クララ・シューマンは「ワーグナーの音楽は一時の出現として忘れられていくだろう」と言ったと言われている。その言葉通り、シューマンの精神はその後のヨーロッパ音楽の中に脈々と行き続けているのである。

□シューマンのピアノ作品

謝肉祭 (Carnaval)【1834~1835年作曲】

この作品は1834年から1835年作曲された20曲の組曲である。

この作品には音名で言うとA・S(Es)・C・Hという4つの音が暗示的に入れられており、実はこれはシューマンの片思いの相手でシューマンと同じくヴィークに師事していた女性であるエルネスティーネの生まれた土地とシューマン自身の名前のアルファベットなのである。

また曲のタイトルで「フロレスタン」や「オイゼビウス」はシューマンが批評活動する際に使われた人物名で、シューマンの精神分裂的な症状と見る人もいる。

そして、最後のダヴィッド同盟とはシューマンの中で作られた革新的音楽グループでフィリスティンは音楽的保守派のことを表している。

幻想曲 (Fantasie)【1836~1838年作曲】

1836年~38年にこの作品は作曲されたが、当時シューマンは指の故障のため、ピアニストへの道を断念し、さらに最愛のクララ・ヴィークとの仲を彼女の父であり、師でもあったフリードリヒ・ヴィークに引き裂かれるという悲劇の真っ只中にあった。その苦しい心情を幻想曲「廃墟」として作曲した。これがこの作品の原型となっている。

これで完成といかなかったのには理由があり、その頃、ベートーヴェンの故郷ボンでベートーヴェン没後10周年を記念する碑を建てる計画が持ち上がっていた。これに賛同したシューマンはこの幻想曲を出版し、売り上げを寄付することを思いついた。そこで、ソナタ形式に変え、タイトルも『「廃墟」「トロフィー」「棕櫚の葉」からなるピアノフォルテのための大ソナタ』とつけた上で出版しようとした。

しかしこれは上手くいかず、結局1839年「幻想曲作品17」として出版された。以上の経緯からも分かるように、この作品はクララへの思慕を表現したロマン派的な面と、ソナタ形式の古典派的な面が見事に融合した作品である。

幻想的小曲集 作品12 (Fantasiestucke)【1837~1838年作曲】

この曲は1837年~38年、クララ・ヴィークを父親から取り戻すための法廷闘争の期間に作られた。ある意味でシューマンが最も力強く活動した時期の作品である。この小曲集はシューマンが当時夢中になっていたドイツのロマン派小説家、E.T.A.ホフマンの「カロ風幻想作品集」をモチーフに作られた。小品という短い曲の中にシューマンの深い思索と情緒が存分に発揮されているといえよう。

交響的練習曲 (Symphonic Etudes)【1834~37年作曲】

1834から37年にかけて作曲された変奏曲。

シューマンの変奏曲の中でも傑作と名高い。タイトルからも分かるように色彩豊かで1つの世界観の垣間見える練習曲である。

3回出版されたが、出版される際に第2版では削られ、第3版ではブラームスによって遺作を付け加えられた。現在は第1版か第3版で演奏されることがほとんどである。

ピアノ協奏曲 (Piano Concerto)【1845年作曲】

1845年に完成したこの作品はシューマンの病気との闘いの勝利も意味していた。

完成の前年、1844年シューマンはひどい頭痛とともに鬱病が再発し、この年、1曲も作曲できないほどの状態となった。そこで、妻クララとともにシューマンはドレスデンへと療養に向かった。そして一時は回復不能かと思われた病気が徐々に回復しこの作品の作曲を行ったのである。

この作品の第1楽章は1841年に自身が書いた「ピアノと管弦楽のための幻想曲」を使用し、第2楽章第3楽章を付け加えて完成した。グリーグもこの作品を手本としたという逸話も残っている。

ピアノ以外の作品序曲 「マンフレッド」(Overture” Manfred”)【1848~49年作曲】

この作品はシューマンが1853年にイギリスの詩人バイロンの劇詩「マンフレッド」に感動して作曲した。

「マンフレッド」の内容は主人公マンフレッドは全ての記憶を持ち続ける能力を含む様々な力を神から与えられる。しかし、マンフレッドは愛する人を失いその悲しい記憶もまた消えることがなかった。そこでその悲しい記憶を失うために放浪の旅に出る。その中で彼にとって記憶を消すことの最終地点が死であることに気がつき、アルプスの山中で死を迎える、というものである。

シューマンはこの詩に16曲作曲したが、現在この序曲のみ演奏されることがほとんどである。ブラームスがこの作品を聴き感動して、交響曲1番の作曲を思い立ったとも言われている。