ディヌ・リパッティ

Dinu Lipatti【1917年3月19日~1950年12月2日】

ショパン:ワルツ集

リパッティは、1917年ルーマニアのブカレストで、アマチュアでありながらサラサーテなどに師事したヴァイオリニストの父とピアニストの母の間に生まれた。

ブカレスト音楽院で学び、1933年にウィーンでの国際ピアノコンクールでは、素晴らしい演奏を見せるも、審査員に若すぎると考えられ、2位になった。

この時審査員の一人だった アルフレッド・コルトーは抗議して審査員を辞任した。そのコルトーに招かれたリパッティはパリに向かうこととなる。

パリではピアノをコルトーに、指揮をシャルル・ミュンシュに、作曲はブーランジェに学んだ。

その後、1943年に祖国ルーマニアを去った彼は1944年からスイスのジュネーブ音楽院でピアノ科の教授となり、後に妻となるマドレーヌと共にジュネーブに定住することとなった。マドレーヌは9歳年上で既婚者だった。夫との離婚で揉めており、当時はまだ不倫関係だった。彼らが結婚できたのはリパッティの死の前年のことであった。

ところが、将来を嘱望されたリパッティを病魔が襲ったのは1947年。彼はリンパ肉芽腫症と診断され、わずか3年の後、1950年にこの世を去った。

死の数十分前、最後に聴いたのはベートーヴェンの弦楽四重奏曲 11番だったそうである。

ディヌ・リパッティの芸術

リパッティには多くのエピソードがある。

来日したコルトーに対して日本の記者団が「若手で最も才能があり、将来を期待している人は?」と質問した際「リパッティ・・・、しかし、もういない」とコルトーは小さくこぼしたという。

また、一時恋人だったこともある同じルーマニア出身のピアニスト、クララ・ハスキルは手紙で、「あなたの才能がうらやましくてならない」と送ったという逸話も残っている。

リパッティの音楽は、奇をてらったものは無いし、技術を前面に押し出すわけでもない。しかし、透明感のある音色とあふれる詩情はどこか高貴な印象を残す演奏で、聞く人に感銘を与えるだろう。

彼の最後にして伝説のコンサート、ブサンソン音楽祭では、「まるでゴルゴダの丘に向かうイエス・キリストのようだった」と妻が述懐するほどの酷い体調でありながら、彼を待つ聴衆のため演奏した。さらに、コンサートの途中で体調不良のためショパンのワルツを弾ききれず、いったん控え室に戻った彼が、注射を受けて再び舞台に上がったというエピソードには心を動かされる。

ブザンソン音楽祭では最後にコラールを一曲弾いたそうだが、録音されておらず悔やまれる。

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彼は33歳の若さで悪性リンパ腫で亡くなってしまったが、彼の残したCDを聞けば、クラシック界が失ったものの大きさを知ることが出来るだろう。

ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル

□ディヌ・リパッティ 略歴

1917年 ルーマニアのブカレストで生まれる
1925年 ブカレスト音楽院で学ぶ
1933年 ウィーン国際ピアノコンクール第2位
1934年 コルトーに招かれパリで学ぶ
1943年 ジュネーヴに亡命、スイスに定住する
1950年 死去

□ディヌ・リパッティ CD紹介



ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル
リパッティの最後のリサイタル。歴史的名盤です。医師から止められそれでも聴衆との約束のために舞台に立ったリパッティの演奏はモノラルだとか録音の善し悪しに関係なく心を打ちます。

Icon: Dinu Lipatti
7枚組でほぼ全てを網羅しているそうです。しかもワルツはブザンソン版も入っているとのこと。リパッティの全集がこのような値段で売られているとは!

□ディヌ・リパッティ 書籍紹介


巨匠(マエストロ)たちのラストコンサート (文春新書)
クラシックの巨匠たちの最後のときに迫ったドキュメンタリー風の本です。ピアニストはグールドとリパッティしか入っていませんが、トスカニーニやバーンスタイン、ロストロポーヴィチなどのそうそうたるメンバーが収録されています。
音楽に人生を捧げたマエストロたちが最後のコンサートを迎える時はこちらもグッときてしまいます。
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