ビル・エヴァンス

William John Evans【1929年8月16日~1980年9月15日】

Portrait in Jazz [12 inch Analog]

 

ビル・エヴァンスは1929年8月26日アメリカ、ニュージャージー州で生まれた。

2歳年上の兄がピアノを習っていたことから最初はヴァイオリンを習い始めたがその後ピアノに転向したそうである。

当時を知る伯父によると、ビルの兄がピアノ教師についてレッスンを受けている間、ビルは部屋の隅で座って聴いており、教師と兄のレッスンが終了した後、その日に弾いていた曲を演奏したそうである。

そして、ビル自身も6歳半になる頃、ピアノのレッスンを受け始めた。

当初は難しい技法などよりも初見演奏を重視したレッスンを受け、家にある楽譜をどんどん弾いていった。6歳から13歳のこの期間はクラシック音楽を学んでいた。

ところが、12歳の時にジャズに触れ、ジャズのレコードを聴くようになり、ビルはジャズの演奏の面白さに夢中になる。

当時のビルの友人たちはビルの才能に驚き、ビルに手紙を書く際には「Dear Bill〈88keys〉Evans」と宛名をするようになったという。さらに友人と共にバンドを結成すると、ますますジャズにのめり込んでいった。レコードはバド・パウエルやナット・キング・コールをはじめ、手当たりしだいに買って聴いたし、時には学校をズル休みして、ライブを聴きに行ったりしたという。

Time Remembered

その後、1946年、南ルイジアナ大学に入学した。ひとり暮らしということもあり、昼は大学、夜はクラブでの演奏という二重生活を大学時代は送っていた。しかし、それでも二年生の時には名誉学生になるなどクラシックの評価も高く、充実した大学生活を送った。

ピアニストではあったが、常に勉強を続ける彼はピアノ演奏以外に管楽器の演奏などからも強く影響を受けたらしい。「私が興味あるのは『ジャズを演奏する』楽器じゃない。『ジャズを考える』精神なんだ。」と後に語っている。

大学卒業後にビルはニューヨークに移り住み、ジャズピアニストとして様々なバンドに参加し仕事を開始したが、商売的にはそれほど上手くはいかなかったようだ。

さらに51年から54年にかけて朝鮮戦争における兵役につくこととなった。彼は軍の音楽隊に所属したが、やはり兵役は彼にとってはマイナスだったようである。

除隊後1年間は両親の元で休養した。彼は勘を取り戻し、軍にいた頃に失った自信の回復、プロとしてやっていくことへの不安を払拭するために毎日スタジオにこもり、ピアノを弾き続けた。また、当時兄ハリーのもとにも会いに行った。兄の3歳の娘デビーのために「ワルツ・フォー・デビー」を作曲したのもこの頃である。

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さて、55年からは再び拠点をニューヨークに移す。彼の部屋の1つははクナーベのグランドピアノが占領していたそうである。そして作曲の勉強のために1年半学んだ。

その後ようやく仕事を始めた。最初はどんな仕事でも、そしてジャズの仕事が徐々に増えた。MJQの対バンとしてヴィレッジ・ヴァンガードに出演したのもこの頃だった。

ビルにとって大きな転機が来たのは1958年。マイルス・デイビスが当時、ピアノを担当していたレッド・ガーラントの代わりの新しいピアニストを探し始めた。

マイルスは全てのジャズメンにとって常にトップスターであり巨人だった。

そしてそれはエヴァンスにとっても同様で、「ある日、電話が鳴り、受話器をとって『もしもし』と出ると、『やあ、ビルか?マイルス―マイルス・デイヴィスだ。週末フィラデルフィアっていうのはどうだ?』と言うんだ。まるで―わかるだろう?―気絶しそうだった。」と後にインタビューに答えている。

マイルスからはセッション後にバンドに誘われ、それから7ヶ月間の濃密な時間を過ごすこととなった。バンド脱退も、理由は父親の病気などのビルの希望であり、円満な脱退であった。

1959年、マイルスのカルテットから脱退したビルは新たなアルバムの制作を始める。

このアルバムはジョージ・シアリングに「ビル・エヴァンスはここ数年聴いた中でも最も清々しいピアニストだ。」と評され、さらに、マイルス、アダレイ、ジャマルからも絶賛されるピアニストとなった。

その後再びマイルスバンドに戻りレコーディングするなど、ビルはますます名声を高めていくこととなったが、この頃、ビルは素晴らしいジャズの巨人と呼ばれるようなメンバーと演奏を共にしながら、自分の伝えたい音楽を模索していた。彼はトリオがお互いに刺激し合い、成長するバンドが作りたかった。

そして、ついにドラムのポール・モチアンと23歳のベースのスコット・ラファロと巡り合ったのである。このトリオはそれぞれが相手の音楽を聴き会話するように演奏する―インタープレイーを行い、ビルの思い描いたトリオとなった。

ところが、このトリオで4枚めのレコードを出した数日後、スコット・ラファロが交通事故で亡くなるという悲運が彼らを襲った。ビルはショックを受け、翌年までピアノを弾けない状態になった言っている。

この後、再びエヴァンスは活動を苦しみながらも開始し、評論家からジャズピアニスト部門で1位をもらったり、新生トリオでヨーロッパツアーを行うなど精力的に活動し、1980年9月10日のステージを最後に9月15日、51歳でこの世を去った。

彼はジャズピアニストとしてももちろんのこと、作曲家としても60曲ほどの作品を残しており、才能ある人物であった。彼のピアノに向かって瞑想するようにうつむくピアノ演奏の姿勢は独特で有名である。

□使用ピアノメーカー

□ビル・エヴァンス DVD紹介


Oslo Concerts [DVD] [Import]
「枯葉 ビル・エヴァンス・トリオ・ライヴ’66」と「ビル・エヴァンス ザ・ラスト・トリオ・ライヴ’80」をまとめたDVDです。ビル・エヴァンスのファンになったらぜひ。

□ビル・エヴァンス CD紹介


Portrait in Jazz
リバーサイド4部作と呼ばれる1枚です。ビル・エヴァンス、ベースのスコット・ラファロ、ドラムのポール・モチアンという最高のトリオが残した2枚のスタジオ録音のうちの1枚です。ビル・エバンスの最高傑作の1枚にふさわしいと思います。

Explorations
リバーサイド4部作と呼ばれるビル・エヴァンストリオの最高傑作の1枚でスタジオ版です。イスラエルから始まる選曲も素晴らしいです。気がついたら通して聞いてしまう完成度の高さです。

ワルツ・フォー・デビイ+4
リバーサイド4部作と呼ばれるビル・エヴァンストリオの最高傑作の1枚でライヴ盤です。エヴァンスの代表曲のWaltz For DebbyやMy Foolish Heartなどの曲ももちろん素晴らしいですが、とにかくピアノトリオの3人のインタープレイが素晴らしいというしかありません。

Sunday at the Village Vanguard: Keepnews Coll
リバーサイド4部作と呼ばれるビル・エヴァンストリオの最高傑作の1枚でライヴ盤です。このライブの10日後にラファロが交通事故で亡くなってしまいました。

ベスト・オブ・ビル・エヴァンス
ジャズのアルバムはたくさんあってどれから手をつけていいものか…、という方におすすめ。これから聞いてみようという人はまずこちらで試してみては?